
栃木県にある『世界文化遺産』に登録されてる世界的に有名な「日光東照宮」は、広い境内に55棟の建築物があり、そのうち9棟が「国宝」46棟が「重要文化財」に指定されている日本の最高技術が集約された神社で、日光東照宮のシンボルで太陽が明るく輝くという意味を持つ「陽明門」を中心に「五重塔」などの歴史的建造物から「眠り猫」「三猿」「想像の像」などの有名な彫刻や霊廟等の見どころが多い観光スポットで、現在は『世界的に有名な太陽の聖地』として世界中から年間150万人以上が訪れています。
戦国の覇者である「徳川家康」が八州(日本全土)の鎮守として祀られた世界遺産の「日光東照宮」がある日光という地は、関東の比叡山とも呼ばれるほど古くから山岳信仰や修験道の霊場(パワースポット)だった場所で、比叡山延暦寺の創建よりも古い766年頃に「勝道上人」が男体山(二荒山)を開山してから、「弘法大使・空海」や「慈覚大使・円仁」などの名立たる高僧の来山伝説や日光を厚く信仰していて徳川家康が個人的にも尊敬している鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」を中心に関東の一大霊場として栄えて、日本全国の東照宮の総本社である日光東照宮は「久能山東照宮」や「上野東照宮」と共に『日本三大東照宮』の一つにも選ばれています。
『世界文化遺産』に登録された日光の社寺
平成11年(1999年)に「日光の社寺」が『世界文化遺産』に登録されましたが、対象となったのは、日光東照宮・日光二荒山神社・日光山輪王寺の二社一寺の建造物103棟(国宝9棟、重要文化財94棟)と周辺にある日光の自然環境が形成する文化的景観が世界的に高く評価されて『世界文化遺産』登録されました。
徳川家康の黒衣の宰相である「崇伝」の『本光国師日記』に「死後は駿河国の久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行い、三河国の大樹寺に位牌を納め、一周忌が過ぎてから、下野の日光山に小さな堂を建てて勧請せよ、神として祀られることによって八州(日本全土)の鎮守となろう」という言葉から、徳川家康公らしく権威を誇示するためではない小さな堂を二代目将軍の「秀忠」が建てられましたが、祖父である家康を尊敬していた三代目将軍の「家光」によって現代の様な豪華絢爛に改修されて、平成11年(1999年)に日本で十番目の『世界遺産』として登録されました。
「日光の社寺」が『世界遺産』として評価された理由は、「建造物の多くが17世紀の日本を代表する天才的な芸術家の作品であり、高い芸術的価値を持つこと」や「日光東照宮と三代目将軍・家光の霊廟である大猷院(たいゆういん)は、近世宗教建築の代表例であり、日本の古い建築様式の重要な見本となること」に加え「日光山内は、江戸時代の政治体制を支える重要な歴史的な史跡であり、周辺の自然環境と一体となった文化的景観の顕著な事例であること」が世界的に高く評価されました。
日光には世界遺産の「日光の社寺」以外にも一日では全部行けない程の多くの観光スポットがあり、その中でも『日本三大名瀑』で日光修験道の最高パワースポットである「華厳の滝fa-external-link」や江戸時代に発見されてから日光詣の大名や僧侶たちも利用したと伝わる「鬼怒川温泉」は世界的にも有名で、日光という地は、江戸期から日光東照宮の門前町として賑わい「日光を見ずして結構と言うことなかれ」と言われるほど日本有数の観光地・景勝地として現代にも紡がれ続けています。
北極星と北斗七星とレイラインの結界
日光東照宮は、江戸幕府の初代将軍である「徳川家康」を神格化した「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」と左右に「山王神(豊臣秀吉)」「摩多羅神(源頼朝)」が祀られた神社で、東照大権現の御神号は、朝廷から出された4つの案である「霊威」「日本」「東光」「東照」から徳川家康の黒衣の宰相である「慈眼大使・天海」が東照の案と大権現の神号を採択したとされ、太陽が昇る方角の「東」と天照大御神を意識した「照」を冠して、「夜明けの太陽のように世界をあまねく照らす偉大な神」の意を表したと伝わってます。
自然に恵まれた景勝地である日光という地名は、「弘法大使・空海」が過去・現在・未来の全てに存在する、万物を総該した無限宇宙の全一である「大日如来(だいにちにょらい)」の光が照らされるように、この地を二荒から日光という名にしたと伝承され、日光が江戸の真北にあることから宇宙を取り仕切る神で不動の星と呼ばれる「北極星」も日光東照宮の守護神で、北極星は、天空にある宇宙の中心にある神から名前の通り「天之御中主神(アメノミナカヌシ)」や北辰信仰から「妙見菩薩」と同一視され、平和な世を築くために「徳川家康」が宇宙を取り仕切る神である北極星と一体化して、死後も天空の宇宙から日本全土を見守り続けたいという想いが込められています。
元はシリウス系だった説もある海人族が信仰していた北極星以外にも日光には「北斗七星」の結界もあり、「星の宮」「四本龍寺(紫雲立寺)」「輪王寺」「慈眼堂」「大猷院(たいゆういん)」「二荒山神社」「東照宮本社」の七つを結ぶと北斗七星型の配置になることで知られ、最強の結界師でもある「慈眼大使・天海」と関係が深い比叡山の守護神とされる「日吉大社」や江戸・東京にある「平将門の結界」も北斗七星型配置と関係があったとされ、ただ偶然に並んでいるのではなく、山王一実神道の奥義等を使い計画的に配置されたと云われています。
日光東照宮には他にも「レイライン」の結界が複数あり、有名なものでは北極星と日光東照宮と江戸城を結ぶ「北辰の道」、日光東照宮と世良田東照宮と富士山(不死山)と久能山東照宮を結ぶ「不死の道」、久能山東照宮と風来山東照宮と岡崎城を結ぶ「太陽の道」があり、家康が生まれた城である「岡崎城」の真北には大樹寺があり、東の太陽が昇って沈むを無限に繰り返す「死と再生」や、仏教では東西ラインは「輪廻転生」も象徴しているとされて、この日光東照宮の太陽の「日(火)の結界」と現在の東京23区にも江戸川区・荒川区・品川区と区名が川に由来する区が3つもあるように、明治・戦後以降に埋め立てられる前までは江戸・東京は「水の都」と称されて、海へと続く螺旋の「川(水)の結界」もあり、日(火)と水の究極の神界が300年近い平和な時代が続いて世界最大の都市と呼ばれる江戸を護ってきました。
優れた耐震構造を誇る【五重塔】
日光東照宮入口である表門の前で『日本三大石鳥居』の一つでもある石鳥居の左手にある「五重塔」は、慶安3年(1650年)に若狭国(福井県)の小浜藩主・酒井忠勝が寄進したもので、東照宮境内にある木造建物の中では大名が寄進された唯一のものでしたが、江戸時代末期の文化12年(1815年)に焼失してしまい、その3年後の文政元年(1818年)に忠勝の子孫である酒井忠進により再建されました。
日光東照宮の五重塔は、高さが36mで、内部は吹き抜け構造で、中心を貫く心柱は四階部分から吊り下げられ、最下部では礎石の穴の中で10cm宙に浮いている構造で、これは東京スカイツリーの心柱の構造と同じで、地震の際に建物の揺れを軽減するために設計された優れた耐震構造が現代でも非常に高く評価されています。
五重塔の第一層には、方位を表す十二支の動物と季節にちなんだ図柄の彫刻が東西南北の四面に三体ずつ施されており、正面には徳川三代将軍の干支である、徳川家康の「寅(虎)」徳川秀忠の「卯(兎)」徳川家光の「辰(龍)」が偶然にも徳川家康の干支の「寅(虎)」から右から順序通りに並んでいて、十二支の中でも強者の双璧と呼ばれる「龍虎」が揃っています。
仁王像が守護する東照宮の入口【表門】
日光東照宮の入場口である「表門」は、正面の左右に身長4メートルに及ぶ「阿吽(あうん)の仁王像」が安置されたことから「仁王門」とも呼ばれていましたが、明治4年に実施された「神仏分離令」によって、仁王像は日光山輪王寺の「大猷院(たいゆういん)」に移転させられ、門の正式名称の「表門」に変わってしまいましたが、明治30年に崇敬者達の要望も多くあったことで再び仁王像が表門に戻されました。
力強い仁王像と魔除けの霊獣に護られた重要文化財の「仁王門」には、麒麟や唐獅子などの霊獣や「徳川家康」の干支である虎など82体の彫刻があり、中でも悪夢を食べる霊獣で知られる「獏(バク)」は天下泰平のシンボルとされ、獏は鉄や銅も食べるとされており、戦争の時は鉄や銅を武器に使ってしまうため食料がなく生きていけませんが、平和な時代になり鉄や銅を武器として使わない時代は、獏の食料があり生きていけるので、天下泰平のシンボルの一つで徳川将軍家の平和への想いが込められた重要な彫刻とされています。
この表門の先からは拝観料が必要で、日光東照宮単独拝観券の料金は「大人と高校生は1600円・小学生と中学生は550円」で、宝物館も行く予定の方はセット料金で「大人と高校生は2400円・小学生と中学生は870円」もあり、若干ですがお得に買うこともできます。
三猿が有名な五角形の馬屋【神厩舎】
「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿の彫刻が有名な五角形の馬屋である「神厩舎(しんきゅうしゃ)」は、神に仕える神馬(しんめ)のための建物で、初代の神馬は、徳川家康が関ケ原の戦いで乗った馬で知られ、雄の白馬に限定された関ケ原の戦いで乗った馬の子孫が現在も神厩舎で仕えてます。
神厩舎の長押上にある猿の彫刻は全部で8面あり、一番左から「母子の猿(母の愛)」「三猿(幼年期)」「坐っている猿(独り立ち前)」の3面から一段上がって「天を仰ぎ見る猿(青年期)」「下を見る猿(挫折と慰め)」正面から右の面に「物思いにふける猿(恋煩い)」「結婚した猿(人生の荒波・愛が実る)」「子を授かる猿(喜びと平和)」が刻まれ、8面から又1面の「母子の猿(母の愛)」に戻る無限に続く物語ともされ、猿の物語の彫刻を通して人間の一生が風刺されています。
馬屋に猿の彫刻が刻まれている理由は、古来から猿は馬を病気から守るとされ、陰陽五行説の五行を十二支で当てはめてみると、馬は「火」の盛んなところを表していて、猿は「水」の始めを表しているため、水が火を護るという関係性で猿が馬の守護神となってるとされ、他にも五角形をしている馬屋の形は、神社で願いを書いて奉納する「絵馬」の五角形の形の元でも知られています。
日光東照宮のシンボル【陽明門】
日光東照宮のシンボルである「陽明門(ようめいもん)」は、太陽が明るく輝くという意味を持つ日本で最も美しい門と称され、陽明門の名は、現在の京都御所である「宮中」にある十二門のうち、太陽が昇る方角である東の正門から賜ったと伝えられ、日光東照宮の御祭神である徳川家康公の御神号「東照大権現」とも符合しています。
2017年に修復が完了してより一層輝きを増した「陽明門」は、高さが11.1mの二層構造で、間口が7mで奥行きは4.4mを誇り、江戸時代初期の彫刻・飾金具・彩色など、あらゆる工芸・装飾技術の集大成で、門を埋め尽くすかのような膨大な数の彫刻は一日中眺めても見飽きないため別名で「日暮らしの門」とも呼ばれています。
日光東照宮の社殿は55棟あり、彫刻は全部で5173体ありますが、そのうち陽明門には508体もの彫刻が施され、「鳳凰」や「麒麟」などの霊獣から「牡丹」や「菊」などの花や直物、「子供」や「仙人」などの人の彫刻があり、一番上には「鬼瓦」と呼ばれる邪悪な者が門の中に侵入しないように見張ってるとされ、中でも子供たちが笑顔で楽しそうに遊ぶ彫刻には深いメッセージが込められ、小さい頃から苦労の連続だった家康公が戦国の世を終わせて、江戸時代からは未来への希望が明るくて子供たちが安心して遊べるようになった平和な世を象徴しています。
陽明門の天井に描かれた二神の龍【雲竜図】
陽明門の中にある通路の天井には二面の龍の「雲竜図(うんりゅうず)」が描かれていて、四方睨みの竜と呼ばれる天からの「降り龍」360度見渡す八方睨みの竜と呼ばれる地からの「昇り龍」の二神が描かれ、初代の絵は江戸最高の天才画師と呼ばれる「狩野探幽(かのうたんゆう)」とその画派が描いたとされ、狩野探幽は日光東照宮の三神庫にある「想像の像」の彫刻の下絵を描いたことで知られ、陽明門の中央で四方の中心にある黄金の天井に描かれた二面の龍は、太陽と同じように春分に天に昇り、秋分に地に潜むと云われています。
陽明門の正面にある左右の柱には、門の守護役とされる「随身像(ずいしんぞう)」が二体安置されていますが、随身像とは貴族の外出時に護衛と威儀を兼ね随行した近衛府の官人を表した像で、この左右にある二体の随身像には、桔梗紋(ききょうもん)や織田木瓜紋(おだもっこうもん)に似た家紋が刻まれていることから「明智光秀」や「織田信長」と関連があるとされ、門の反対側の左右に柱には、宇宙万物の始まりと終わりを表す「阿吽(あうん)の獅子像」も安置されています。
陽明門をくぐった左手奥にある社殿には「神輿舎(しんよしゃ)」もあり、中には葵紋(あおいもん)、巴紋(ともえもん)、抱茗荷紋(だきみょうがもん)が付いた三基の神輿が納められていて、三基の神輿には、東照宮の主祭神である「徳川家康(葵紋)」と配祀神に「豊臣秀吉(巴紋)」「源頼朝(抱茗荷紋)」が乗って並び、神輿舎の建物内部の天井には、日本の天女の絵の中では最高峰と呼ばれ、日本一の美人の天女という別称を持つ「天女奏楽(てんにょそうがく)の図」があります。
陽明門の反対側に刻まれた【魔除けの逆柱】
陽明門の反対側には「魔除けの逆柱」と呼ばれる、正面から向かって右から二番目の柱だけは「輪文(ぐりもん)」と呼ばれる渦巻のような彫刻が逆向きになっていて、これは陽明門のあまりの美しさに魔が差さないようするための魔除けの意味と、建物は完成と同時に崩壊が始まるとされ、あえて一か所だけは未完の状態にしておくことで建物の崩壊と災いが起こることを避けていると考えられています。
魔除けの逆さ柱の他にも、参拝者が水で手や口を清めるための「御水舎(おみずしゃ)」の屋根の上にある四つある角の内の三つは尖っているのに対して、正面から左上にある角の一つは先端が切られている部分があることや、「上神庫(かみじんこ)」にも装飾として空けられた穴の一か所だけが大きく作られています。
これは、徳川家康公の遺訓で「及ばざるは過ぎたるよりまされり」とありますが、意味は「足りない位のほうが完璧すぎるよりも良い」ということで、あえて一か所ぐらいは不完全な部分を残すことで日光東照宮を後の世にも平和が続く日本として永遠に残そうという天下泰平への想いも込められています。
国宝の唐門と御神体を祀る【御本社】
御神体を祀る日光東照宮で最も重要な社殿と呼ばれる「御本社」の正門である国宝の「唐門(からもん)」は、西の側面に大黒天や弁才天などの「七福神」や俗世を避けて竹林の中で清談して時を過ごした「竹林の七賢人」なども見られ、小さな花形文様などを含めると611の彫刻があり、左右の門柱には波の地紋彫りが施され、その上から紫檀や黒檀で寄せ木細工されて、左側に「昇龍(のぼりりゅう)」右側に「降龍(くだりりゅう)」が描かれてます。
拝殿・石の間・本殿からなる国宝の「御本社(ごほんしゃ)」は、拝殿屋根の正面に徳川家康の干支にちなんだ「寅(虎)」の彫刻、虎の下方の左右には三代目将軍・家光の干支である「辰(龍)」の彫刻、唐門の背面には二代目将軍・秀忠の干支の「卯(兎)」の彫刻が刻まれています。
拝殿の中の天井には、狩野探幽と一門が制作したとされる一頭ずつが異なったデザインの100頭もの龍が描かれ、法親王着座の間の杉戸には、有徳ある王者の治世に出現する霊獣「白沢(はくたく)」、将軍着座の間の杉戸には、平和な時代に出現する霊獣「麒麟(きりん)」が描かれています。
石の間は、人の世界(拝殿)と神の世界(本殿)を繋ぐ重要な空間とされ、日光東照宮の中で最も神聖とされる「本殿」は、一般の参拝客の入室はできなくて内部のことは深秘として口外することが禁止され、神職の方でも祭礼や御煤祓いの際にしか入ることができませんが、内側は石の間側から順に、幣殿(外側)、内陣、内々陣の3室で構成され、「御神体」は最奥の内々陣に祀られてます。
平和を象徴する国宝の彫刻【眠り猫】
日光東照宮の数ある彫刻の中で最も有名で、平和を象徴する国宝の彫刻である「眠り猫」は、落語や講談にも登場する伝説の名匠と呼ばれる「左甚五郎(ひだりじんごろう)」作と伝えられて、日の光を浴びて牡丹の花が咲く場所でうたた寝しているところから「日光」に因んで彫られたとも云われ、この眠っている猫の彫刻は、日(火)の聖地で平和な世をもたらした「東照大権現(徳川家康)」を祀る日光東照宮にしか存在してないとされています。
眠り猫の彫刻の背面には、「竹林に遊ぶ雀(すずめ)」の彫刻がありますが、天敵とされる「猫」と「すずめ」が同じ場所で共存していて、猫の近くでも雀が伸び伸びと羽ばたいて笑って楽しそうに遊んでいる彫刻から「戦乱の世が終わり、天下泰平の世が訪れた」ことが表され、260年以上という世界的にも長期的な平和だった時代を象徴しています。
また「眠り猫」は、眠ったように見せかけて、悪意のある者や邪悪な者がある一線を越えた時にはいつでも全力で飛び掛かれるように常に見張っているともされ、眠り猫の彫刻の近くにある「開かずの門」の先にある東照大権現(徳川家康)の墓所がある「奥社(奥宮)」に通じる場所を現在でも守護しているとも云われています。
東照大権現(徳川家康)の墓所【奥社(奥宮)】
東照大権現(徳川家康)の墓所がある「日光東照宮の奥社(奥宮)」は、銅鳥居、銅神庫、拝殿、鋳抜門、宝塔からなる神聖な場所で、「開かずの門」の先にある207段の一枚岩で作られた石段を全て登らないと辿り着くことができませんが、登り詰めた先に建っている青銅の鳥居をくぐると、右手に江戸時代には家康の位記や宣旨などの文書や甲冑などの神宝がしまわれていた御宝蔵とも呼ばれる「銅神庫」があります。
更に石段の先の正面には「拝殿」があり、建物全体が真鍮や銅の板で覆われ、その上から黒漆が塗られた拝殿の中には、金箔押しが施された柱や極彩色の「鳳凰(ほうおう)」が随所に描かれていて、拝殿の裏辺りにある青銅製の「鋳抜門(いぬきもん)」は、一番重要とされる奥社の「宝塔」を護る高さ3.4mの門で、左右に狛犬、門の屋根上には龍に似た霊獣である「蜃(しん)」があり、扉以外の柱や梁なども全て一つの鋳型で鋳造されています。
日光東照宮の頂上で奥社(奥宮)の最奥にある東照大権現(徳川家康)の墓所である「宝塔(ほうとう)」は、長い間一般人は立入禁止の聖域でしたが、昭和40年(1965年)に東照宮350年祭を機に一般に公開され、当初は木造で、後に石造に改められましたが、天和3年(1683年)の地震で破損したため現在の唐銅製(金・銀・銅の合金)に造り替えられたとされ、8角形が5段の基壇の上に更に青銅の3段があり、合わせて「8角」「8段」の上に宝塔が乗せられています。
宝塔の前には、鶴と亀の燭台、唐獅子の香炉、花瓶からなる三具足が据えられて、中でも「鶴(五角形)と亀(六角形)の彫像」は、わらべ歌の「かごめかごめ」の歌に隠されてる徳川埋蔵金の場所やワンピースの正体(究極のメシア)と関連があると噂され、宝塔のそばにそびえる『日光の隠れ開運パワースポット』と呼ばれる「叶杉(かのうすぎ)」は、樹齢が約600年を超える古木で、幹のほこらに祈願すると願い事が叶うとされています。
光の八咫烏の意思を継ぐ徳川将軍家
太陽の化身とされる八咫烏には、賀茂氏・饒速日命(物部氏)・南朝・北朝など複数あるとされてますが、その数ある中でも歴史が相当古く、縄文神道・修験道・密教・陰陽道を極める「役小角(迦毛之大御神・地氏系賀茂氏)」系列の意思を継ぐのが日光修験道の開祖である「勝道上人」で、日光二荒山神社の御神体山である男体山(二荒山)は、古くは「補陀洛山(ふだらくさん)」と呼ばれてたことから熊野三山の「那智の滝fa-external-link」と繋がりがあり、明治時代の神仏分離の前までは「日光東照宮」と一体だった二荒山神社の御祭神に「味耜高彦根命(アヂスキタカヒコネ)」別名で「迦毛之大御神(かものおおみかみ)」が祀られていることからも古くから日光という地が賀茂氏(八咫烏)と深い繋がりがあるのが分かります。
この民衆の味方側でもある地氏系賀茂氏系列の「八咫烏(迦毛之大御神)」の血統と意思を継ぐのが「徳川将軍家」とその家臣団たちで、江戸の街は類いまれな知恵と創意工夫によって「五行(木火土金水)」が調和した理想の都で、自然豊かな大きな庭園が数多くあって、日本を象徴する富士山がどこからでも見えて、生活ごみを資源として堆肥に利用する完全な循環社会で、日本刀などの武器は美術品に変わり、江戸城下は各地に水路が張り巡らされ、水運も発達してた世界で最も治安が良かった世界最大の都市と呼ばれ、外国勢力との大規模な戦争や国内での大きな争いもなく自然と共存した平和な国家が260年以上も続きました。
このような八百万の神や自然と調和した完全な平和が260年以上も続いた国は世界の歴史上でも日本の「縄文時代」と「江戸時代」ぐらいしかないと言われていますが、西洋の悪霊に操られた「明治維新の悪人」たちの暴力革命によって約700年間続いた日本の原住民の伝統文化と呼ばれる「武家政治」が終わり、民衆の味方側でもあった「八咫烏の系譜」は明治政府によって一度完全に封印されてしまいましたが、再び縄文時代や江戸時代のように大自然への感謝や大切さを思い出して、一人一人が救世主の1人であると自覚し使命と責務を果たした時に土壇場で世界がひっくり返って、夜明けの太陽の日が再び昇って光が差しこむ「弥勒(369)の時代」が日出ずる国の日本から到来するのかもしれません。
旅行の達人の観光ガイド
日光東照宮の観光所要時間は、「2時間以内」で全部拝観することができますが、日光東照宮以外にも「日光二荒山神社」や「日光山輪王寺」などの社寺が周辺に多数あり、日光東照宮周辺だけで一日中楽しめる観光スポットになっています。
日光東照宮のシンボルである陽明門の鳥居の前の一番奥の端にある三角から横に2歩、縦に2歩の場所は、不動の星と呼ばれる北極星・徳川家康の墓所・日光東照宮の御本社・鳥居と陽明門の中央・江戸城が一直線に並ぶ『日光最大級の開運パワースポット』で知られてます。
陽明門の手前の左手にある「本地堂」には「鳴竜(なきりゅう)」と呼ばれる、本地堂の内陣天井に描かれた巨大な竜の絵の頭の下に立って手や拍子木を打つと、天井と床が共鳴して竜の鳴き声のような反響音が聞こえる神秘的なお堂もあります。
日光東照宮周辺にある他の観光スポットは、徳川家康公と日光東照宮をテーマにした、名刀「勝光宗光」などの刀剣類や奉納品が展示している「日光東照宮宝物館」や日光山内の入口に架かる木造朱塗りの美しい橋である「神橋(しんきょう)」から、奥日光側には、自然の湖としては日本一の標高を誇る「中禅寺湖」や『日本三大名瀑』で日光修験道の最高パワースポットである「華厳の滝fa-external-link」など、山や湖や滝など森羅万象に囲まれた日光という地は、五行(木火土金水)が調和した季節の彩を五感で感じられるスポットで充実しています。
日光東照宮の観光情報
【スポット名】日光東照宮
【住所】栃木県日光市山内2301
【電話番号】0288-54-0560
【交通アクセス】
■JR東武日光駅より世界遺産めぐりバスで8分
(世界遺産めぐりバスで約8分の「表参道」バス停下車から徒歩4分)
■JR東武日光駅より東武バスで9分
(東武バス、中禅寺温泉行きで約9分の「西参道入口」バス停下車から徒歩9分)
【料金】「日光東照宮単独拝観券」大人と高校生は1600円・小学生と中学生は550円
【営業時間】
4月~10月 9:00~17:00
11月~3月 9:00~16:00
(受付は閉門30分前に終了します)
【ホームページ】公式サイトfa-external-link